こんにちは。
仰天ニュースにて「O・J・シンプソン事件」が取り上げられるようです。
O・J・シンプソン事件とは、レジェンド級のアメフト選手「シンプソン」の元妻が殺害され、警察から逃亡した末に犯人として裁判にかけられたものの、有罪確定と言われながらも無罪を勝ち取ったという事件です。
見るからに壮絶な事件の匂いがプンプンしますね。
調べていくうちに「名探偵コナン」や「シャーロック・ホームズ」のような、どこか引き込まれる内容で、後に映画化・ドラマ化もされるなど世界的に有名な事件になりました。
今回は、O・J・シンプソン事件の内容や真相、なぜ無罪になったのか、その理由や弁護士などを時系列にまとめてみました。
O.J.シンプソン│生い立ち・経歴
まずO・J・シンプソンがどのような人物なのかを見ていきましょう。
- 名前:O・J・シンプソン
- 生年月日:1947年7月9日
- 出身:アメリカ・カリフォルニア州・サンフランシスコ
- 身長:185.4cm
- 体重:96.2kg
- 職業:元アメリカンフットボール選手
O・J・シンプソンさんは、カリフォルニア出身の元アメフト選手です。
ちなみに、名前の「O・J」はオレンタール・ジェームスの頭文字ですが、オレンジジュースの略語として、「ジュース」という愛称で呼ばれていました。
貧乏からアメフトのプロへ
シンプソンさんは、アフリカ系アメリカ人の両親の元に生まれますが、
- 幼い頃に栄養失調でガニ股になった
- ギプスを買うことすらできなかった
というほど家庭は貧乏でした。
しかし、高校に入るとアメフトチームに所属し、短期大学の2年間では好成績を残すと実力が認められ大学へ編入。
新記録を次々と叩き出し、ハイズマン賞、マックスウェル賞といった賞を受賞。
ドラフト1位指名で、アメフトのプロAFL/NFLにプロ入り。
1969年から1980年(22歳~33歳)までの現役生活で、
- 11,236ヤードのランを獲得
- オールプロに選出されること5回
- プロボウルにも6回選出
- 1973年にはNFL最優秀選手賞を受賞
という記録を残しています。
特に「NFL最優秀選手賞」は、サッカーのバロンドール賞のような、その年の最もすごかった選手に送られる賞ですから、アメリカでは国民的選手であったのは間違いないでしょう。
1985年にはプロフットボールの殿堂入りを果たしています。
アメフト引退後は、解説者としても名を馳せていました。
また、俳優として「裸の銃を持つ男」というコメディ映画にも出演。
(個人的にめちゃめちゃ笑って面白かったのでぜひ見てみて欲しい!)
アメフト時代の年俸は、現在価値で約6億円を受け取っていたとされています。広告業などを合わせると、さらにその数倍は年収があったようです。
アメフトの平均年俸は約2億円とも言われる世界ですから、シンプソンさんがすごい選手だったことがわかりますね。
O・J・シンプソン事件
O・J・シンプソン事件とは、レジェンド級のアメフト選手「シンプソン」の元妻が殺害され、警察から逃亡した末に犯人として裁判にかけられたものの、有罪確定と言われながらも無罪を勝ち取ったという事件です。
O・J・シンプソン事件の時系列
まずは簡単に時系列にまとめてみます。
- シンプソンの元妻・その友人が刃物で刺され殺害
- シンプソンは、一度は手錠をはめられるも、釈放される
- しかし、第1級殺人罪で逮捕令状が降りる
- シンプソンは友人の車に乗り警察から逃走
- 逃走劇がテレビで生中継される(動画あり)
- 結局、自宅で逮捕される
- 刑事裁判が行われ、有罪は決定的とされていたが、無罪を勝ち取った
という流れになっています。
それでは1つずつ詳しく見ていきましょう。
事件発生
1994年6月13日、シンプソンの元妻であるニコール・ブラウンさんの自宅玄関前で、
ニコール・ブラウンと友人のロナルド・ゴールマン(男性)の遺体が見つかります。
元妻ニコールさんは1977年、ナイトウェイトレスをしていた18歳のときにシンプソンと出会ったといいます。
その後、2人は結婚。
ニコールさんとの間には2人の子供ができますが、シンプソンはニコールを日常的に虐待していたそう。
ニコールさんは何度も警察に電話をし、1989年にはシンプソンは逮捕されています。
ただこのとき、ニコールさんは起訴を取り下げています。
生活がうまくいかなかったためかニコールさんは、1992年に離婚申請を行い、離婚。
離婚後もシンプソンは元妻ニコールに付きまとっていたようで、
「別の男と付き合うなら殺す」
と電話で脅迫したこともあったそう。
そして事件が発生。
1994年6月、ニコールさんの自宅玄関前で何者かによって殺害されてしまいます。
シンプソンさんに動機があるとすれば、これまでの関係や他の男性と一緒にいた事に腹を立て殺害に及んだと考えられるでしょう。
事情聴取
遺体が発見された日に警察はまず、容疑者にあがったO・J・シンプソンに事情聴取を行いました。
その聴取の際に捜査官は、シンプソンの左手の指に切り傷があることを発見します。
それについて聞くと「よく覚えていない」と回答。
しかし、現場からはシンプソンの血液反応も出ていたため、警察はさらに怪しみました。
その後、シンプソンは「米で最も腕の良い弁護士」と言われる、ロバート・シャピロ弁護士を雇います。
警察から逃走
警察はシンプソンを第一級殺人罪で起訴するとし、弁護士はシンプソンへ出頭を通知しますが、シンプソンはなんと逃走。
友人・カウリングが運転する車に乗り、警察からカーチェイスで逃げる様子は報道機関も追っており、全米に生中継されました。
この逃走劇は、逃走に使われた車のフォード・ブロンコから「ブロンコの逃走劇」とも言われています。
当時アメフトのスーパースターが警察から逃げていることから、約1億人が見ていたとされています。
その時の映像がこちら。
ちなみに、このとき全米中がテレビに釘付けとなり、食事の手間を省くためにピザの注文が急増していたそう。
また、同時に行われていたNBAファイナル・ニューヨーク・ニックス対ヒューストン・ロケッツの第5戦は忘れられ、テレビ視聴者からは「GO!OJ!」(OJ逃げろ!)という声もおきたそう。
しかしながら、逃走劇から約2時間後、シンプソンが向かった先は自宅で、到着した直後に弁護士も到着し、弁護士立ち会いのもと警察に逮捕されました。
裁判
1995年1月25日、第1級殺人罪の被告人として、ロサンゼルス郡のカリフォルニア州最高裁判所で刑事裁判が行われました。
検察側の主張:
検察は「凶悪事件を裁くのが好き」といわれる検察官クラークを筆頭に、被害者2人の血が付いた手袋の片方が事件現場で、もう一方がシンプソンの自宅で見つかったことなど、被害者の血液がついた証拠品が多数発見されたことや加害者の傷や過去の振る舞いなどから有罪を主張。
弁護側の主張:
一方、警察に対し根強い不信感を持つ黒人弁護士のコクランを主とした弁護団は、シンプソンにはすでに交際相手がいたこと、発見されたという手袋をシンプソンが法廷ではめてみたところサイズが小さすぎて入らなかったことなどを挙げ、検察側のあげた証拠品の信憑性や人種問題について反証し全面無罪を主張しました。
シンプソンは無罪を主張。
これまでの経緯や状況証拠などから、シンプソンの有罪は決定的とされていましたが、約11ヶ月に及んだ裁判の結果はなんと無罪に。
無罪を勝ち取ったこの裁判結果は、アメリカの憲法によって、二度と上訴されることはなく、覆されることはありませんでした。
そのため、どうやって有罪が決定的と言われていたシンプソンが無罪を勝ち取ったのか?その理由が大きな疑問として世間に広がりました。
なぜ無罪に?理由は人種差別か
有罪確定と言われたシンプソンはなぜ無罪を勝ち取ることができたのでしょうか。
その理由はいくつもあり、それぞれが重なり合った末の結果になりました。
詳しく見ていきましょう。
弁護団がスゴすぎた
無罪を勝ち取った大きな理由と言えるのが、弁護団がスゴすぎたからでしょう。
シンプソンとロバート・シャピロ弁護士
シンプソンが雇った弁護団は「ドリームチーム」と呼ばれるほど、有能な弁護士たちばかりでした。
シンプソンは、そんな有能弁護士たちをなんと10人も雇います。
そのため、シンプソンの弁護費用だけで約5億円もかかったそうです。
以下が、シンプソンの弁護を担当した弁護士たち。
シンプソンと弁護士たち
- ヘンリー・リー(法医学者。ジョンベネ殺害事件担当)
- ロバート・シャピーロ(全米一の弁護士として有名。アメリカ俳優の事件を多く担当)
- ジョニー・コクラン(人種裁判で全米一と折り紙つき。マイケル・ジャクソン裁判担当)
- バリー・シェック(DNA鑑定研究者)
- ピーター・ニューフィールド(同上)
- ジェラルド・ウールメン(サンタクララ大学法学部長)
- フランシス・リー・ベイリー(「無罪請負人」の異名を持つ辣腕。ボストンの絞殺魔裁判、サム・シェパード事件 (Sam Sheppard) 、パトリシア・ハースト事件担当経験)
- アラン・ダーショヴィッツ(ハーバード大学憲法学者。マイク・タイソンの強姦事件担当)
- マイケル・バーデン(元ニューヨーク市警検視官、キング牧師の遺体解剖担当)
- ロバート・カーダシアン(被告の友人。被告と弁護団の連絡係)
名だたる弁護士ばかりですよね。
一部では、「全米選抜」の弁護団とも称されました。
これらの弁護士たちを抱えることにより、無罪を主張したシンプソンにより強く味方したことは間違いないでしょう。
陪審裁判
この時の裁判は、「陪審裁判」でした。
陪審裁判とは、陪審員によって判断されることから、陪審員が受ける印象によって大きく判決が分かれるといった特徴があります。
もともと、検察側に有利である大陪審での起訴の予定でしたが、
その直前にロス市警が「OJに脅えるニコールが警察に助けを求めた911番の録音テープ」を公開。
その後、弁護側から「警察が911録音テープを漏らしたことで、大陪審の裁定に著しく偏った予断を与えた」と大陪審の解散が要求されると、
判事はこれを受け入れ、大陪審を解散した、という経緯がありました。
人種
弁護側が最も重要視したのが陪審員の人種でした。
アメリカでは人種問題が昔からあることは知っている人も多いでしょう。
被害者は白人、加害者は黒人だった今回の事件。
陪審員にも同じように「白人は白人に甘く、黒人は黒人に甘い」といった傾向はあったようです。
そのため、弁護側が狙ったのは、裁判を有利に進めるために陪審員に黒人を多く揃えようということ。
そのため、あらゆる手を尽くし様々な制度を最大限に使います。
- 陪審員を黒人が多い地区から選出することを要求し、採用される。
- 白人が選出されても検察・弁護側に認められている専断的拒否権(理由を述べることなしに、選出された陪審員を除外することが一定回数以下は可能な権利)を最大限行使した。
こうした弁護側の黒人陪審員を増やす努力をした結果、弁護側の思惑通り
12人中9人を黒人の陪審員にすることに成功しました。
ちなみに裁判官は、白人でも黒人でもない日系アメリカ人のランス・イトウという方になりました。
人種差別問題へ
弁護側はこの裁判を「殺人事件」ではなく、「人種問題」という観点を裁判に持ち込みました。
殺人事件であるにも関わらず、焦点を人種差別問題にすり替えることで、裁判を有利に進めました。
証拠品の手袋
裁判の中で陪審員に大きく印象を変えたのが「証拠品の手袋」でした。
検察側は血液や毛髪のほか、繊維の鑑定結果などを、証拠として提出。
その中に証拠品として、犯行に使用されたとされるシンプソンの血液がついた皮の手袋が提出されていましたが、この手袋に関して以下の点が問題となりました。
- 手袋のサイズがシンプソンの手に合わなかった
- 手袋を発見したとされる刑事が「人種差別主義者」だった
証拠品として検察側から提出された手袋だったのですが、
そこで法廷にて実際にシンプソンが手袋をはめて確かめることに。
手袋をはめるシンプソン
しかし手袋のサイズがシンプソンに合わず、検察側は『手袋は血を吸って縮んだ』と反論。
弁護側の再現実験では『血を吸っても殆ど縮まない』という結果が出ています。
さらに警察が証拠を不適切に取り扱った疑惑が浮上し、血液サンプルの汚染や改ざんの可能性も弁護側から指摘。
手袋のサイズがシンプソンに合わなかったこともあり、捜査側への信用度が落ちてしまいました。
そんな中…
なんと「この手袋を発見したファーマン刑事が過去に人種差別発言をしていた」という録音テープが弁護側から提出されたのです。
かつて他の取材を受けていたファーマン刑事は、取材時に「ニガー」という黒人を揶揄する差別的言葉を幾度となく使用したり、イトウ判事の配偶者をからかうといった発言が録音されていました。
歴史上、人種差別主義者が犯行をでっち上げることが度々あったことから、白人警官に嫌悪感を抱く者は少なくなく、
人種差別発言は捜査側への印象を非常に悪くしたのは明白。
これらにより、陪審員へ「人種差別者が提出した証拠は、本当にシンプソンの物だったのか怪しい」といった印象を与えることができました。
「証拠よりも人種」に重きをおいた弁護側の意図はうまく作用しました。
結果は無罪に
1995年10月2日に判決が下され、陪審員の全員一致で「無罪」になりました。
- 手袋を発見したとされるマーク・ファーマン刑事が人種差別主義者であったこと
- 警察の証拠管理が杜撰だったこと
など人種差別的観点が陪審員へ悪い印象を与え、これらが裁判で弁護側へ有利に傾いたことで、無罪判決が言い渡されました。
アメリカの無罪は、上訴されることは認められていないため、無罪が確定しました。
その後
シンプソンは刑事裁判では無罪を勝ち取りましたが、被害者ゴールドマンの遺族から民事裁判訴訟を起こされました。
こちらは、補償賠償が認められ、シンプソンは被害者・ゴールドマンの父親に722万5千ドル、母親に127万5千ドルの補償をするように命じられました。
しかし、シンプソンの収入はアメフト選手の年金だったことから、賠償金には使用できない旨が明記されており、法的に保護されました。
映画化・ドラマ化された
この事件は1994年に映画化、2016年に『アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件』としてドラマ化されました。
エミー賞リミテッドシリーズ部門で作品賞他9部門を獲得しています。
強盗をして刑務所へ
2007年9月16日に、シンプソンは5人の男と拳銃で武装してラスベガスのホテルに押し入り、スポーツ記念品を盗んだ容疑で逮捕されました。
この時の被害者は過去に、シンプソンがアメフト選手時代だった頃のトロフィーなどを取引していた業者の2人で、銃で脅し物品を盗んだとされています。
シンプソンは「盗まれた記念品と妻子の写真を取り戻そうとしただけで、銃など持っていなかった」と主張。
しかし、裁判ではこの主張は退けられました。
2008年12月5日、シンプソンに合計33年の懲役刑が言い渡され、刑務所への収監が決まりました。
アメリカでは仮出所が認められていますがシンプソンの場合、仮出所は最低でも収監から9年目以降となり、2013年に裁判のやり直しを求めましたが、却下されます。
その後、9年間服役した後、
2017年10月1日の朝に仮釈放されました。
仮釈放されるシンプソン氏
報道によると、シンプソンは事前に持ち物の点検を受け、書類とホットプレートや衣類、シャワー用の履物などが入った箱を持ち出ていきました。
仮釈放中の出頭先や免許取得の方法などについての説明も受けていたようです。
シンプソンの出所は、報道陣を避けるために午前0時過ぎの時間に設定され、友人の1人が車で迎えに来て引き取ったようです。
仮釈放中は過度の飲酒や犯罪歴のある人物との交流、銃や薬物の所持が禁止されています。
結局その後シンプソンは違反を犯さず、普通に生活をしていたようです。
OJシンプソンの現在や家族についてはこちら。
まとめ
今回は、O・J・シンプソン事件の真相や経緯、なぜ無罪になったのかについて見てきました。
殺人事件なのに人種差別問題にすり替える弁護側の狡猾さによって無罪になったのは、頭が良いのは確かですが、結局犯人として裁かれていないところにはモヤッとしますね。
最後までお読みいただきありがとうございました。